2015年3月12日木曜日

3/10神保町試聴室、松研duoシリーズ(2)の覚書き

昨日の記憶も新しいうちに一通り録音を聴く。
最初の方は両者探り合い、饒舌であったり、急に無口になったり、なかなか攻めあぐねたのもつかの間、なにかの拍子で空気が変わる。なんなんだろう?こういうのがほとんどの場合、あるのです。多分、自分に呪いがかかるというか、そっちの世界のコトバが分かるようになるのにちょっとタイムラグがあるのだ。要は準備不足なんだろうか。即興演奏の準備の仕方。これは人それぞれではあるが、当然、まったく準備要らない、と豪語するムキもあろう。今自分はちょっと微妙な位置にある。

思う所あり、前回やその前のソロのときのように、マイクを何本も立ててマルチで録ったり、ということはせず、ZOOMのH1というハンディ・レコーダーをポンと置いて録る。とにかく、気合い入れて録音する時に限って、悪くはないんだけど、どうだったのかな、録音聴いてみよう…という感じになりがちで、録ってない時に限って、いえーい、となる確率が高い気がするんだけど、これは実は気のせいではなくて、本当にそうなのかもしれない。会場、お客、その辺においてあるもの(「針一本」でさえ!)、温度湿度、気圧…、すべてが演奏に影響してくるのだから、録音も当然影響大きいはず。ということを前日の寝しなにふっと考えて、録音ヤーメタ、となった次第。でも、ちょっと聞きたいので、中をとってラクに録音してみようと。

で、やはり後半、さがさんがノーエフェクトで朗々と歌い、俺は尺八を、浪々?というか、とにかく2つのラインが近づいたり遠ざかったり、とてもシンプルで、飽きない。最後のサックスに持ち替えて開き直って2人で大暴れしているのも面白い。前半も、アイディアとしては面白い個所が多いのですが、「ニオイ」が薄かったな。特に俺ですけど。

寝しなにもうひとつ思ったのは、よく最近見かける絵の名人ね。YouTubeなどで、ボールペン一本とかで下絵なしでどんどん描いちゃう人。ちょっとした点とかハネとかがいつの間にか空気感をまとった立派な「絵」の一部になっている。まあ即興で描いてるわけでもないのかもしれないのだが、牽強付会して、そのような細密画を即興で下絵なしで描く人がいたとして、1ストローク1ストロークが、取り消すことができないが、瞬時にそのストロークを含んだ大きな見取り図が再構築されていく、というようなプロセスを想像したり、あるいはそれに対して、かの、かの、誰だっけ?彫刻家で、材料の中に作品はすでにあり、彫刻家はそれを取り出すだけだ、と豪語した、かの?彫刻家は誰だったか。 まわりくどくなったが、随時更新vs一気呵成、一見対立するような概念だが、実はこれ一つの創造過程の両面なんではないのかな。って気もする。演奏者の顔ぶれを見て、せーので音出してみて、予想通りの音が出ると、もうなんだかやる気が出ない。でも、どこかで意外な展開を見せてくれたり、やってみるとなにか起こるもんです。そういうズレが無いとなかなか面白くない。…だよね?自分でもちょっと新鮮な着想だ。ま、とにかく、そのズレをめがけてそこにまとわりつく。聴いてる人の予想はまた別だろうから、何でこの人ここでまとわりついてんの?と思われてるかもしれない。

ニオイとか空気感というのは通常、音の単体でそういう空気を漂わしてる、と想像しがちだけど、そうでもなくて、他の音との位置関係とか対比でそれが出てくる。んじゃないか、という気がしている。カセットで聴こうがハイレゾで聴こうが、演奏者のキャラクターは全面に出てくる。その人の神経の筋道みたいなものがかなりそれを決定していて、自分の音を変えるというのは容易ではない。でも、長く違う環境にいたりすると、音も変わってくる(に違いない)



 

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