2014年5月3日土曜日

今日は、秋葉原を歩いていて、あの駅前の公園が「埋め立て」られていることに気がついた。埋められて、広場になっていた。そこに立ち現れたのっぺりとした空間は、もうこんな街どうでもいいや…、という虚脱感を味あわせてくれるのに充分な空虚な空間だった。放射能でも何でも降るが良い…。いや、そういう自暴自棄な考え方はやめよう。きっと疲れていたに違いない。朝から2つの現場で作業し、ウチに帰って急いで家族の夕食の算段をすこしばかりして、秋葉原を歩いて横切ってレッスン場にむかう。その上、本当に久しぶりに腰をちょっとグキっと痛めた。なんということだ。とはいえ、大勢に影響はない。なんと言っても生きている。多分、死ぬまでは生きているのだ。不条理だ。

というわけで、いま私の頭から離れないのは、空気の振動が人間が聴くことにより「ピッチ」として認識される、ということだ。本当に不思議だ。空気の振動というのは「縦波」である。つまるところ、耳の奥の鼓膜が、1秒間に440回圧力を感じるとAの音が「聞こえる」。どうがんばっても440回の振動としてではなく、連続した「ピー」とか「プー」というふうに聞こえる。なんて不思議なんでしょう。
そのうえ、もっと不思議なのはその振動数が増えたり減ったりすると、「ピッチベンド」として、連続したピッチの変化として認識される。ピッチの変化っていうか、連続した「うニョー」っていう音。これは、どういうことか。脳が作り出しているのか。
世界中の伝統音楽,呪文、お経の類、派手なピッチベンドが多用されることが多い。脳が活性化されるのであろうか。
また、超低音、といっても、可聴域を下回るとそれは振動としてしか認識されなくなる。しかし、「4つ打ち」などでわかるけど、何かが規則的に繰り返されるとそこには何かが立ち現れる。良い悪い以前の、何か。そのたち現れるその原理は、早い振動がピッチとして感応されることに似たシステムなんじゃないのかな。脳にはどうしてそんな機能が備わったんだろう。視覚に関していえば、色彩ですね。これも振動数。
そして、長和音、短和音。メジャーコード、マイナーコード、ですね。一般に、明るいとか悲しいとかいわれますが、これらも、振動がピッチとして聞こえることに関連した脳の働きがあるのではないか。
しかしまあなんとも不思議ですが、弦を3本張って、ジャランと鳴らすとそこに「感情」に似た何か明るかったり物悲しかったりするアトモスファーが出現します。ただ、本当の悲しみとか喜び、とはどこかが違っている。失恋した。ギターでEmを弾いた。これじゃギャグでしょう。映画とかではあり得るけれども、実体験としては、親が死んだとしてもEmではないでしょう。そもそも、マイナーコードで出現する「悲しさ」ってなんだろう。そもそも、嬉しいとか悲しいという感情は理屈ではない。肉体と結びついた根源的な事象だ。
むしろ方向性が逆で、ということも考えられる。いわゆるマイナーコードのサウンドが,物悲しさ、なのだ、等々。ディミニッシュコードのサウンドが不安さなのだ。ディミニッシュコードを弾いたら不安な感じがする、のではなくて、ディミニッシュコードの構造そのものが精神の構造と関係していて、不安というものを作り出している。とか。

いずれにしても、インプロヴィゼーションをやるということは、常に(意識するにしろしないにしろ)根源的ないろいろな問題と向かい合っているということだと思う。問題は自分の無意識領域でおこっているいろいろな現象を含んでいる。自分の深いところをのぞき見る行為である。ヤバいんですよ。

しかし、向かい合わざるを得ない。確立したジャンルを利用して表現するのではなく、ジャンルやスタイルを超え、というか関わり合わずに、ノンイデオマティックに遊ぶ。遊んで良いんですよという許可は、既成の考え方や感覚と対立する。自分の無意識を覗き込むことによりその原動力を得る。

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