2018年3月10日土曜日

だいぶ酔って書いているので首尾一貫していません

左から2冊、ずっと気になっていたものの身辺あわただしく時が過ぎてしまいましたが、ようやく入手しました。じっくり読めそうです。一番右のはたまたま入手した生涯学習講座の記録本です。
 というわけで、ざっと読んだところ、私が影響を受けて即興演奏ワークショップ(のちの「新・即興の日」)を催すことになった、同じ著者による「奏でることの力」(初版は2000年…ということを検索して確認していたら大谷君がレビューしていたのを発見)に比べると、著者の頑固オヤジ化がすすんだ、というか、大勢としてまったく変わらない現実に苛立っているのかなあ、という印象を受ける、舌鋒するどくキレのよい記述。これは一種分かりやすいかも…。けれども、現実は全く変わってないように見える。先日話題になった銀座線の車内にBGMを導入する話とかね。

しかし、その私が始めたワークショップにおいては、現実にすごく幅広いいろいろな人が参加してくれて教えられたことも少なくはなく、その後もさまざまな形で付き合いが続いている人も多い。まあ、自ら動いて自分にレッスンした、というか??ちょっと他の手段では手に入らない宝がもらえたような。大変は大変だったけど。いや、だった…という過去完了ではなくて、まだまだやりたいと思ってます。

そういう活動を、自分の近くでやる。というのがそもそもの方針ではあった。なので、最初は自分が住む町の市民館でスタートしたわけですが、近所の人はほとんど来てくれず、ずいぶん遠くから来てくれた人もいたし、そのあたりはライブなんかもそうですね。近所の人は来てくれない。なので、漂流duoでは、近所の人に聞かせるというのが隠れたテーマではあったのです。川崎でも高津でも落合でも、近所の人が大勢(小勢か)来てくれた。都内ジャズクラブ等に来れる人というのはまあ、ひとつの特権階級なのですね。自分の拙い表現力はじょじょに改善するという事で、とにかく、そんなことやって来ました。

で、今は大自然に近い櫛引に暮らしはじめて、自分の子ども時代は九州の自然の中で育ったわけですけど、やはり、自然は良い、というか、自然はコワい、というか。キビシいからこそウツクしい。人間も自然の一部だ。などなど。その中で音楽というのはどう位置するのか。自然と対峙する音楽なんて、想像上のものかもしれない。

まあこの「音楽」というコトバ自体、当然他の諸現象から切り離しているわけなんで。自然の中にいると「音楽」というのは、ほぼ、いらないわけで。 「音楽」というコトバがあらわしている無形物の領域、これは江戸時代には多分なかったと思われる。

で、冒頭に紹介しました若尾裕さんの近著「サステナブル・ミュージック」も、このタイトルからして自然と人間の関わりを関連づけてしまう。いま、冬場の暖房は薪に依存しているのですが、この薪というのも何十年もかかって薪になるわけで。燃した分は育てなきゃなんない。

自然。いや、人間も自然の一部である。人間を成り立たせているものは自然である。人間の中に自然はある。それは現れ方しだいでは神と呼ばれたり生理と呼ばれたり。で、ずばり、音楽と呼ばれたりする、ということか。という発想、これは 「サステナブル・ミュージック」のなかの一章で「ノヴァーリスの音楽的問題」という章からの連想である。この章はこの本におさめられている原稿の中でも比較的早い時期に発表された文章で、それがなぜかこの本では後ろに近いところに配置されている。ノヴァーリスの残したフラグメント、これを紹介してもらっただけでとてもありがたいのだが、この章後半における考察自体は常識を根拠にしたような、いくぶん浅い考察と思えて、肩すかしを食らったような気がしてしまう。が前半のいきなり本質を突く指摘のするどさの故なのかなあ。

ということで、遺伝子とか氣とか、なんだかんだ、人間を成り立たせている無形のエネルギーのようなもの、これはある角度で切り出すと音楽のカタチをとっており、そのため、時には何が嬉しいのか良く分からないんだけど人間は音楽をやり続けてきた。 と考えるのが順当ではないのか…。

というわけで、今後の課題としては
ところかまわず演奏する
即興演奏を身の回りで行う
一人で出かけていってその土地土地のミュージシャンと演奏する
などかなあ。

なんだこりゃ


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