2015年5月7日木曜日

即興音楽の私利私欲

ワークショップとかやっていると、

「音量を公平にしてくれ!」

という切実な希望があがったりする。まあ、どういう状況かはピンと来る人にはピンと来ますね。誰か音量の大きい人が自分の音をかき消すような音を始終出していて「迷惑」みたいな…。俺の楽器は音小さいんだから全員がそれに合わせろ、とか…。
あとは、演奏時間もみんな同じにしてくれ、とか…。
こういう状況は、徹頭徹尾、音楽から遠いことになっていることを悟らねばならない。
とはいえ、音楽だけが人生じゃないので、別に音量合戦もいいんじゃないの?俺は逃げるけど。

話題は変わりますが、
あるユニットをやっていると、私の場合、最初はすごく綿密に打ち合わせたり練習したりしますが、何年も続けるうちにそういうのがカラダに入っていき最終的には何も打ち合わせなく突然演奏してもOKみたいになります。それが理想の成り行きかどうかは知らないけど、だいたいそんなコースをたどる。まあ「馴れ合い」って言われれば、どこが違うんだか説明できない(考えるのが面倒くさいだけかもしれませんが。まあ、生きてる時間は限られているので、これ以上無益な考え事に時間を費やすのは不可能)。
あえて言えば、(やっぱ考えてしまう)なんか、自由に音曲を操れるようになると、いわば音楽を私物化しているような風に見えてしまう、とか。あるかもしれません。なんだか何がおもしろいんだかわからないけどニヤニヤして恣意的に音曲をねじ曲げるという。それも、端々にイヤな自己顕示のようなものがあらわれて、ハタから見てると非常に恥ずかしいことになっているのに本人は気づかない、というような。それを称して「馴れ合い」と。まあ、これ、自分がしばしば陥っている境地ともいえる。即興演奏や即興的部分や即興的精神を含む演奏というのは、そういう暗黒を含んでいるのである。しかし、安全第一の光だけの表現など奥行きに欠けて面白くないのである。影があるからこそ面白いんだと思う。だから、その自我の影をいちばん知っているはずの自分の演奏、これを手放しに喜べるというのは一種の才能ですね。影というものが整理されてるんだろうなあ。俺にはそういう才能はありません。影の整理をするように自覚していけば到達できるのかなあ。
しかし、もっと突っ込んで考えると、どういう時に「恣意的」とか「自己顕示」みたいに聞こえるんだろう???これはあらためて考えると不思議である。ある種の音が「下品」「上品」とされる原因はだいたい生理的現象を連想させる音響であるかどうか、などですね。それだけではないが。それだけでは無い部分というのはおそらく文化的な枠組みが影響していると思われる。
演奏や表現行為しない人でも、自分の声を録音して聞いたり、自分の後ろ姿をビデオで見たりするとなんかイヤな感じすることありませんか?言い争う姿なんか、そのときは必死になってるけど、あとで見るの本当にいやだろうなあ。役者の演技とはまた違った、暗黒なものを感じる。まーそこまでいくと表現行為とちょっと違うね。と、思います。「ハプニング」やってた人たちはどう感じていたんだろう…。

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