2013年8月24日土曜日

インプロヴィゼーション

「舵を切れ」は冗談だけど。

デレクベイリーの書いた「インプロヴィゼーション」という本
1146夜『インプロヴィゼーション』デレク・ベイリー|松岡正剛の千夜千冊: インプロヴィゼーション
昔、ピットインにおいてあったのを読んだり,図書館で借りて読んだりしたけど、何が書いてあったかほとんど忘れている。大江健三郎によれば、そういうのは読書ではないそうです。ただ、この松岡さんのページを読むと、今や自分の中で常識となっていることのような顔をして堆積している考え方を発見したり、こんなこと書いてあったっけ?(もう一度読み返してみよう/決して読み返すまい)など、いろいろな感想が湧いてくる。
例えば、
「第3に、これらができてくると、実際の演奏を何度も何度もしてみる。ときに故意に中断し、ときにえんえんと続ける。これをさまざまに課して、しだいに自身の体そのものが楽器になり器楽になっていくところを見つめる。もっとはっきりいえば、脳がフリー・インプロヴィゼーションするまで稽古する。それを実感する。フレーズやヴォキャブラリーが体からなくなるまで、その練習に励む。」
という部分。
実際にこういう主旨のことが書いてあったとしたら、私は完全に読み落としています。これはちょっと重大な過失、または記憶喪失か…?だって、自分の実感に導かれてこれに似た考えに至った、と思ってるんだもん。やっぱりもう一度読んでみたほうが良さそうだ。
しかし、読んでしまうと今度は教条主義的になりやすいのだ。自分の性格としてそうであることはよくよく分かっているので、慎重になってしまうのだ。 「錬金術はイカン」とか,「◯◯は錬金術だ」とか。やはり二度と読まないほうが良い…??
とはいえ、若いときは自分がなにか考えても、それがどういう位置づけになるのかが気になってやたらと書物やらなんやかやを参照したものですが、今はそういう気にならない。これはトシをとったということもあるけど、インターネットの存在は大きいでしょうね。精神的な怠惰を誘うインターネット?、または、いろいろな事柄が相対化されてしまうインターネット。しかしネット断ちしてみたい誘惑もあるけど、いまさら遮断したところでもう戻れないところまで来てしまっているようにも思える。


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