2016年10月22日土曜日

本日「新・即興の日」

阿蘇山噴火からまだ日が浅いですが、今度は鳥取。現地の方々にはお見舞い申し上げます。
今回も、「予知」はなされなかったと思いますが、どうなんでしょうね。一寸先は闇といわれますが、私も気をつけ…るにも限界ありますが。自然というのは悠然としているような、時として徹底的に無慈悲に人間のスケールの小ささをおもいしらされるような、恐ろしい巨大な存在ですね。しかしながら、こんな事を言ったり書いたりしている人間とその精神さえも、自然の生み出した、自然の一部、またはそのあらわれ、なんだと思います。

…なんだか、なかなか本題に入りませんが、本日の「新・即興の日」は、まずは「耳」、聴くことの重要性をテーマにしようとおもいつきました。とはいえ、結局は演奏全般にも言えることですが、聴くことは、自然の一部たる肉体の機能の一部たるに過ぎません。いや、過ぎませんなんて不遜な言い草かもしれない。自然は、そのあらわれたる人間精神が、最敬礼しようがバカにしようが、揺るぎなくエネルギッシュです。そのエネルギッシュであるとかなんとかという、半ば擬人化をふくむ表現も、自然の側から見れば笑止、いや、自然は見ることも笑止ってことも、そういう擬人化を含む….キリがありませんが、とにかく、その聴くという行為だけを抜き出して何かするという事は無理な気がしますが、聴く、というポイントから四方に広がっていくようなことは充分可能で、有効なんだと思います。物理的な空気の振動が音として、メロディーとして、ことばとして、「聞こえ」るというのも自然の摂理なんだろうけど、有限の存在たる私からすると、改めてミステリアスです。

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